知ってますか、今日、1月20日は、何の日?
これを知っている人は、たぶん相当に、お年を召していらっしゃいますね。神戸にも、宝塚にも、そして京都に、”ゆかり”があるんですよ。その答えは、”玉の輿の日”なんです。ご存知でしたか。私も、つい最近知ったんです。というのも、大倉山の神戸中央図書館に行ってきて、調べていて知りましたんです。”玉の輿”と申しますと、何と言っても、”シンデレラ”ですよね。これは子供だって知っていますよね。”シンデレラ”はドイツのグリム兄弟が19世紀初め頃に発表した作品で、それを読んだドイツの少女は、王子様に会うために教養を磨いたんだそうです。心がけが違いますよね。グリム童話は日本には明治20年に、初めて紹介されたんだそうですが。。。。。では、日本での、”玉の輿”といえば、さあ、誰でしょうか? それは、”モルガンお雪”なんですよ。1904年、明治37年に、日本人のお雪さんと、アメリカの大金持ちの御曹司だったミスター・ジョージ・モルガンとが、結婚したのが1月20日だったんです。 だから、今日は”玉の輿の日”なんです。明治37年といえば、2月10日には”日露戦争”が始まった年なんです。だから、その当時の国際結婚がどんなだったか、分かりますよね。軍国主義の時代ですよ。いわゆる青い目の異人さんと結婚するんですし、アメリカへ行ってしまうんですから、それは大変だったことでしょう。ついでですが、昨年は”日露戦争”100年の年だったんです。この戦争では日本海海戦で、大日本帝国海軍の東郷平八郎提督が、ロシア帝国のバルチック艦隊に勝利したことでも有名ですよね。神戸には”会下山”(えげやま)という所があります。JR兵庫駅から、まっすぐ北へ1キロメートル位行った所にありますんですよ。そこには東郷さんの書いた碑文があります。それには「楠木正成陣所地」と書いてあります。700年位前に、日本でも南北戦争があったことはご存知でしょうが、楠木正成という南軍の武将が湊川の合戦の時に、見晴らしの良い”会下山”に本陣を置いていたんです。彼はこの合戦に負けて、現在の湊川神社の所で自殺しました。それで彼を祭った神社が湊川神社で、ニックネームが”楠公(なんこう)さん”というわけです。私が子供の頃には、ここの祭礼で懐古行列というのがありましたが、現在は”神戸祭り”となっています。神戸は日本の”都”であった京都に近く、海陸の要衝の地でもありますので、歴史的な遺跡には事欠きません。いくらでも書けるんですよ。そして、半世紀前には、紅顔の美少年であった私は、このお山にある”神港(しんこう)高校”で、勉学にいそしんでいましたんです。ああー、あの頃が懐かしいなーぁ!”日露戦争”が始まった頃の日本は財政難の時代でして、日露戦争の戦費調達のため、日本政府は国債を大量発行しました。それを日本女性と結婚した縁でモルガン財閥が引き受けたという歴史的事実があります。他の諸外国は引き受けなかったんです。当時はイギリスとロシアは同盟国だったんですから、ヨーロッパ諸国は傍観してただけです。だからお雪さんは、いわば日露戦争の恩人だった、と言う人も有るくらいです。では、お雪さんとは、どんな女性だったんでしょう。彼女の半生は、1951年、昭和26年、帝国劇場で、故、越路吹雪主演、日本初のミュージカル「モルガンお雪」として上演されたそうです。”越路 吹雪”さんは昭和14年に宝塚でデビューしてから、男役スターとして活躍していました。それが宝塚在籍のまま、”モルガンお雪”に出演して、大成功を収めたそうです。その成功で、宝塚を退団しました。その後はミュージカルや、映画、テレビなどで、大活躍しましたのは、ご存知ですよね。”モルガンお雪”が、彼女の成功のきっかけとなったんは、あまり知られていないんじゃないんでしょうか。また、有吉佐和子が、”モルガンお雪”を題材として、1970年、昭和45年に”婦人公論”という月刊誌に「ふるあめりかに袖は濡らさじ」という戯曲を発表していたんだそうです。それをもとにして、沢村貞子さんや、水谷八重子さんとか、坂東玉三郎が舞台で演じて、ヒットを飛ばしたそうです。最近では、宝塚の専科生の”松本悠里”と言う人が、タカラジェンヌ夢の軌跡,として、「舞台人生変えたモルガンお雪」といっています。それは、「昭和57年の花組講演で、最高の当たり役となる「モルガンお雪と出合った」、そして、「私の舞台人生の中でエポックになった役」と、インターネットのホームページに書いています。この人は、神戸松蔭女学院高校卒業で、昭和32年3月が宝塚の初舞台だったそうです。このように、”モルガンお雪”は昭和の時代にヒットした作品のようです。私は神戸の母から聞いた記憶があります。最近のお若い人は知らないんじゃないでしょうかね。それでは、神戸とは、どんな”ゆかり”があるんでしょうか?まず、私の所に、”モルガンお雪”の写真があるんです。それは、セピア色の古色蒼然たる写真で、裏に”検”兵庫県・昭和13年4月25日との検査のスタンプが押されています。これが何を意味するのかと申しますと、昭和13年4月24日にお雪さんが、実に34年ぶりに58歳で日本に帰ってきたんです。だから、その翌日ということになりますね。船で長崎に着いたことになっていますから、翌日、神戸に急行列車で来たんでしょう。そして当時、兵庫県警の水上警察でパスポートの査証官をしていた亡き父が、フランスのマルセーユ港から神戸港に到着した欧州航路の豪華客船、12000トンの”靖国丸”に手荷物を取りに来た、「お雪さんの写真を、船内のロビーで撮ったんだ」、と話していた記憶があります。手荷物は大型旅行トランク13個だったそうです。当時は太平洋戦争の開戦前で、日中戦争の最中だったんで、船から持ち出す荷物は、全て税関と警察の検査を受けなければなりませんでした。父がその検査のスタンプを写真に押して家に持ち帰っていたんが、太平洋戦争の空襲にも、阪神大震災にも耐えて、今、私の手元に残っているんです。私がこの一文を書くキッカケともなった写真です。そして、お雪さんは、神戸市須磨区に1年ほど住んでいました。須磨区一の谷町にある”異人山”の”平清盛の孫の安徳天皇の内裏跡”・”安徳宮”という、小さな祠の前にはですね、なんと! ”モルガンお雪”が奉納した石灯籠が2基有ったんです。それを確かめにデジカメを持って行って、写真を撮ってきたんです。そして、安徳宮(宗清稲荷社)前の石灯籠の【説明板】には、「この一対の灯籠はモルガン・ユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキで、明治37年日露戦争の始まる直前にアメリカの大富豪モルガン家の御曹司ジョージ・デニソン・モルガンに熱望され国際結婚した人。)が、この辺りが異人山とよばれた頃この東に住んでいた。信仰心のあついユキは宗清稲荷・安徳宮の社前に2基の石灯籠を献納した。一基に加藤コト、モルガンユキと母子の名を並べて刻み、一基は”明治四十四年九月十日”と刻まれてる。平成13年(2001)3月 史跡保存会」と書いてありました。その灯篭の裏側を覗いてみますと、確かに、そのとおり刻まれていました。だから、この石灯籠は”モルガン灯籠”というんだそうです。なお、明治44年というのは、たぶんお雪さんが3度目の里帰りをした時の日付だと思います。それでは、わたしが調べたお雪さんの生涯について書いてみます。”加藤ユキ”として1881年、明治22年11月に生まれ、”雪香”として14歳で京都の祇園の芸妓になりました。お雪は色白、面長で、売れっ子というほどではありませんでしたが、歌舞に優れ、特に”胡弓”が上手でだったそうです。1901年、21歳の時に、アメリカ人のモルガンと出会い、求婚されました。しかし彼女は既に恋人がいたので、その結婚の申し入れを断りました。お雪さんには京都帝国大学学生の川上俊作、という恋人が居ましたが、彼は家族から芸妓と結婚することに反対されて、別の女と結婚してしまいました。失恋した後、モルガンの度重なるプロポーズを断っていたお雪さんも、とうとう、3年越しの熱心な求婚に負けてか、あるいは、お金のために結婚したのか、ということになっています。その身請けの金額が大金で、なんでも結婚を断るため、大金をつきつけたとも言われており、当時のお金で4万円だったそうです。現在の金額では4億円くらいでしょうかね。それをジョージ・モルガンは、あっさり払って、その上に、10万円ともいう結婚費用をかけた結婚式をあげたそうです。おユキさんの想いとは裏腹に、世間では「外人の恋」とか、「4万円の夢」としてもてはやされました。そして、その結婚は米国の大財閥モルガンの金に、祇園の芸妓だったお雪の目がくらんだものだと非難され、石もて追われるが如く、日本を去っていったものだったといわれています。また、お雪さんの拒否に嘆いたモルガンは、自殺未遂を起こしたりしましたが、結局彼女はモルガンと結婚しアメリカに渡りました。当時のアメリカでは人種差別が激しかったんで、新婚生活わずか半年で2人はヨーロッパへ渡り、フランスで暮らすことになりました。パリでは、現地の社交界で大変な評判を呼んだそうですが、第一次世界大戦のさなか、結婚から11年後の1915年、大正4年に、夫のモルガンは亡くなり、莫大な財産を相続しました。ところが、世間の冷たい視線にさらされ、終戦後カトリック信仰に目覚めキリスト教の洗礼を受けて、洗礼名はテレジアとなりました。そして教会堂建設に多額の寄付をするなどしました。モルガンが亡くなり、巨万の遺産を相続したお雪さんは、寄る辺のない異国で、一人住み続ける必要はないのですが、日本を出てくるときの大バッシングの印象が強かったのか、日本への 帰国は昭和13年までずれ込んでいます。パリで12年、南仏ニースへ移って20年と住み慣れたニースから、お雪さんが船に乗って、日本に帰ってきたのは1938年、昭和13年のことでした。なお、数奇な運命に翻弄されたモルガンお雪は、意外と最近というか、1963年、昭和38年5月18日に、京都の紫野の近くの自宅で81才で亡くなっています。お雪さんの墓は京都・東福寺の塔頭・同聚院にあるそうです。
以上ですが、「今日は何の日?」と、いろんな人に聞いてみましたが、誰も知りませんでした。なんとなく納得しました。
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